名古屋城城主は誰?尾張徳川家17代の歴史と有名な藩主を解説

名古屋城

「名古屋城の城主って誰だったの?」「尾張徳川家ってどんな一族?」「有名な藩主は誰?」そんな疑問をお持ちではありませんか?

結論から言うと、名古屋城の城主は尾張徳川家で、初代藩主・徳川義直から廃藩置県までの約260年間、17代にわたって続きました。尾張徳川家は徳川御三家の筆頭として、石高61万9500石を誇る大藩でした。

この記事では、名古屋城城主について以下の内容を詳しく解説します。

  • 名古屋城の築城と尾張徳川家の始まり
  • 歴代17代の藩主一覧と各藩主の功績
  • 特に有名な藩主(徳川義直、徳川宗春など)の詳細
  • 名古屋城と尾張藩の歴史的な出来事
  • 現在の名古屋城と尾張徳川家の関係

名古屋城を訪れる前に歴史を知りたい方、名古屋の歴史に興味がある方は、ぜひ最後まで読んでみてください。

目次

名古屋城の築城と初代城主の誕生

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名古屋城は1610年(慶長15年)に徳川家康の命によって築城が開始されました。西国大名への備えとして、また尾張国の政治・経済の中心として計画された名古屋城は、日本の城郭建築の最高峰として知られています。ここでは、名古屋城がどのように築かれ、初代城主が誕生したのかを詳しく解説します。

徳川家康による築城の背景

関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した徳川家康は、西国の外様大名に対する備えとして、東海道の要衝に強固な城を築くことを決断しました。それまで尾張国の中心は清洲城でしたが、清洲城は低地にあり、水害の危険性が高いという問題を抱えていました。

そこで家康は、より防御に適した台地上の那古野(名古屋)に新しい城を築くことを決定します。この決断が、後の名古屋城誕生につながりました。名古屋城の築城は、単なる軍事拠点の建設ではなく、尾張国全体の政治・経済の中心を移す「清洲越し」という大事業でもありました。

天下普請による大規模築城

名古屋城の築城は「天下普請」として行われました。天下普請とは、徳川幕府が全国の大名に命じて行わせた大規模な土木工事のことです。名古屋城の場合、加藤清正、福島正則、前田利常など、20家以上の大名が動員されました。

項目 内容
築城開始 1610年(慶長15年)
天守完成 1612年(慶長17年)
本丸御殿完成 1615年(慶長20年)
動員大名数 20家以上
石垣担当 加藤清正、福島正則など

特に有名なのが、加藤清正による石垣の築造です。天守台の石垣は「清正石」と呼ばれる巨石を使用しており、その見事な反りを持つ石垣は「扇の勾配」と呼ばれ、日本の城郭建築の傑作として知られています。

初代藩主・徳川義直の入城

1610年、徳川家康は九男の義直(よしなお)を尾張藩主に任命しました。当時、義直はわずか9歳でした。義直の母は側室のお亀の方(相応院)で、家康は幼い義直に尾張61万9500石という大藩を与えることで、徳川家の支配体制を盤石にしようとしました。

義直は1616年に正式に名古屋城に入城し、以後、尾張徳川家は幕末まで17代にわたってこの城を居城としました。尾張藩は紀州藩、水戸藩とともに「御三家」と呼ばれ、将軍家に次ぐ家格を持つ大名家として重んじられました。

💡 豆知識

御三家とは、徳川家康の息子を藩祖とする三つの大名家のことです。尾張藩(義直)、紀州藩(頼宣)、水戸藩(頼房)がこれにあたり、将軍家に後継者がいない場合は御三家から将軍を出すという役割を持っていました。尾張藩はその筆頭として、最も高い格式を誇りました。

清洲越しと城下町の形成

名古屋城の築城と同時に進められたのが「清洲越し」です。これは、それまでの尾張の中心だった清洲から、名古屋への大規模な都市移転事業でした。清洲の住民、寺社、商人などが丸ごと名古屋に移転し、新しい城下町が形成されました。

この清洲越しによって、名古屋は瞬く間に大都市へと発展しました。碁盤の目状に整備された町割り、掘割(堀川)の開削による水運の確保など、計画的な都市整備が行われ、現在の名古屋市の基礎が築かれました。この都市計画は非常に優れており、現在の名古屋市中心部の道路配置にもその影響が残っています。

金鯱のシンボル誕生

名古屋城のシンボルといえば、天守に輝く金鯱(きんしゃち)です。名古屋城の金鯱は、雄(北側)と雌(南側)の一対で、当初は慶長大判1940枚分の金が使用されたとされています。金鯱は火災から城を守る「まじない」の意味と、徳川家の権威を示す目的がありました。

金鯱は尾張藩の財政難に伴い、何度か改鋳されて金の純度が下げられましたが、それでも名古屋城と尾張徳川家の象徴として、現在に至るまで愛され続けています。

尾張徳川家歴代藩主一覧|17代の系譜

尾張徳川家は初代・徳川義直から17代・徳川義礼まで、約260年間にわたって尾張藩を治めました。各藩主にはそれぞれ特徴があり、藩政に大きな影響を与えた人物も多くいます。ここでは17代すべての藩主を一覧で紹介します。

初代から5代までの藩主

尾張徳川家の基礎を築いた時代の藩主たちを紹介します。

藩主名 在職期間 主な功績
初代 徳川義直 1607-1650 藩政の基礎確立、学問奨励
2代 徳川光友 1650-1693 大曽根御下屋敷(徳川園)造営
3代 徳川綱誠 1693-1699 短命ながら藩政を維持
4代 徳川吉通 1699-1713 将軍候補として期待される
5代 徳川五郎太 1713(数ヶ月) 幼少で夭折

初代・義直は家康の九男として生まれ、尾張藩の基礎を固めました。学問を好み、儒学者・堀杏庵を招いて藩校の基礎を作るなど、文化面でも貢献しました。2代・光友は、現在の徳川園の前身となる大曽根御下屋敷を造営したことで知られています。

6代から10代までの藩主

この時期には、尾張藩で最も有名な藩主の一人である徳川宗春が登場します。

藩主名 在職期間 主な功績
6代 徳川継友 1713-1730 将軍継嗣問題で敗れる
7代 徳川宗春 1730-1739 規制緩和で名古屋を繁栄させる
8代 徳川宗勝 1739-1761 緊縮財政への転換
9代 徳川宗睦 1761-1799 藩校・明倫堂設立
10代 徳川斉朝 1800-1827 財政再建に取り組む

7代・宗春は享保の改革を進める将軍・吉宗と対立し、規制緩和政策によって名古屋を繁栄させたことで知られています。9代・宗睦は藩校・明倫堂を設立し、尾張藩の教育制度を整えました。

11代から17代までの藩主

幕末に向かう激動の時代の藩主たちです。

藩主名 在職期間 主な功績
11代 徳川斉温 1827-1839 将軍家斉の子
12代 徳川斉荘 1839-1845 田安家から入嗣
13代 徳川慶臧 1845-1849 一橋家から入嗣
14代 徳川慶勝 1849-1858、1870-1880 幕末の名君、写真家としても有名
15代 徳川茂徳 1858-1863 慶勝の弟
16代 徳川義宜 1863-1870 幼少で藩主に
17代 徳川義礼 1880-1908 華族として尾張徳川家を継承

14代・慶勝は幕末の激動期に尾張藩を導いた名君として知られています。写真に興味を持ち、幕末の名古屋城や城下町を撮影した写真が現在も残されています。

📌 ポイント

尾張徳川家は260年以上にわたって17代の藩主が続きましたが、直系が途絶えた時期もあり、11代以降は将軍家や御三卿(田安家、一橋家、清水家)からの養子が多くなりました。それでも尾張徳川家の名跡は途絶えることなく、現在も続いています。

藩主の交代と将軍継嗣問題

尾張徳川家は御三家の筆頭として、将軍家に後継者がいない場合は将軍を出すという役割を持っていました。しかし、実際に尾張家から将軍が出ることはありませんでした。

特に有名なのが、8代将軍・吉宗の継嗣問題です。7代将軍・家継が幼くして亡くなった際、尾張藩主・継友は有力な将軍候補でしたが、結局、紀州藩主の吉宗が8代将軍となりました。この時の遺恨が、後の宗春と吉宗の対立につながったともいわれています。

初代藩主・徳川義直の功績

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初代藩主・徳川義直は、尾張徳川家260年の基礎を築いた人物です。家康の九男として生まれ、学問を愛し、藩政の基本を確立しました。ここでは義直の生涯と功績を詳しく紹介します。

義直の生い立ちと藩主就任

徳川義直は1600年(慶長5年)に徳川家康の九男として生まれました。母は側室のお亀の方(相応院)です。義直が生まれた年は、まさに関ヶ原の戦いがあった年であり、徳川家の天下統一が決定的になった記念すべき年でした。

1607年、わずか7歳の時に甲斐国府中藩25万石を与えられましたが、これは形式的なもので、実際には駿府で養育されていました。1610年に尾張藩主に任命され、1616年に正式に名古屋城に入城しました。当時16歳の若さでした。

藩政の基礎確立

義直は藩政の基本となる制度を整えました。家臣団の編成、知行制度の確立、城下町の整備など、尾張藩の骨格となる仕組みを作り上げました。また、領内の検地を行い、年貢制度を整備するなど、財政基盤の確立にも努めました。

義直の治世の特徴は、実務を重視しながらも、文化・学問を奨励したことです。武家社会でありながら、学問を尊ぶ気風を藩全体に広めました。

学問への情熱と儒学の振興

義直は学問を深く愛し、特に儒学に傾倒しました。京都から儒学者・堀杏庵を招いて指導を受け、自らも多くの書物を読み、著作も残しています。義直が著した『軍書合鑑』は、武家の心構えを説いた書として知られています。

また、義直は藩士の教育にも力を入れ、後の藩校・明倫堂の基礎となる学問所を設立しました。この学問を重んじる姿勢は、尾張藩の伝統として後世に受け継がれました。

💡 豆知識

義直は父・家康を深く敬愛し、家康の遺訓を忠実に守ろうとしました。また、神道にも関心を持ち、尾張藩では神道と儒学を融合させた独自の思想が発展しました。現在、名古屋市内には義直を祀る尾張藩祖神社があり、尾張徳川家の始祖として今も敬われています。

義直と大名との関係

義直は御三家筆頭の当主として、幕府内で重要な地位を占めていました。3代将軍・家光の時代には、将軍を補佐する立場として幕政にも関わりました。ただし、義直は江戸への参勤を嫌い、名古屋にいることを好んだとされています。

1651年に家光が亡くなり、幼い家綱が4代将軍となった際には、御三家として幕府の安定に貢献しました。義直自身は1650年に51歳で亡くなりましたが、その遺志は子孫に引き継がれました。

義直の遺産

義直は尾張藩260年の基礎を築いた人物として、現在も高く評価されています。学問を重んじる藩風、実務を重視する行政、文化を大切にする姿勢は、尾張藩の伝統として幕末まで続きました。

名古屋市の徳川園には、義直の時代から始まる尾張徳川家の歴史を伝える徳川美術館が併設されています。義直が収集した書籍や美術品の一部は、現在も徳川美術館で見ることができます。

7代藩主・徳川宗春の独自政策

7代藩主・徳川宗春は、尾張藩の歴史で最も個性的な藩主として知られています。将軍・徳川吉宗の享保の改革に反対し、規制緩和によって名古屋を繁栄させました。ここでは宗春の独自政策とその影響を詳しく解説します。

宗春の藩主就任と時代背景

徳川宗春は1696年に3代藩主・綱誠の20男として生まれました。当初は藩主になる可能性はほとんどなく、部屋住みの身分でした。しかし、兄たちが次々と亡くなり、1730年に34歳で7代藩主に就任しました。

当時、江戸幕府では8代将軍・吉宗が享保の改革を推進していました。享保の改革は質素倹約を旨とし、奢侈(しゃし)を禁止する緊縮政策でした。芝居や遊興は制限され、華美な服装も禁止されました。

享保の改革への反発

宗春は吉宗の緊縮政策に真っ向から反対しました。宗春の考えは、経済を活性化させるには消費を促進すべきであり、過度な規制は逆効果だというものでした。これは現代経済学でいう「ケインズ的」な発想に近く、当時としては非常に先進的な考え方でした。

宗春は『温知政要』という書を著し、自らの政治理念を明らかにしました。そこでは「民を豊かにすることが国を富ませる道である」という考えが示されています。

✅ 宗春の政策

  • 芝居や遊興の規制緩和
  • 商業の振興
  • 祭りや催し物の奨励
  • 死刑の廃止(在任中)
❌ 吉宗の享保の改革

  • 芝居や遊興の禁止
  • 質素倹約の奨励
  • 奢侈品の禁止
  • 厳しい刑罰

名古屋の繁栄

宗春の規制緩和政策により、名古屋は空前の繁栄を迎えました。芝居小屋が次々と開かれ、遊郭が賑わい、商人たちの活動も活発になりました。「芸どころ名古屋」の基礎はこの時代に築かれたとも言われています。

宗春自身も派手な振る舞いで知られ、白い牛に乗って城下を練り歩いたり、奇抜な衣装を身につけたりしたという逸話が残っています。こうした行動は、宗春の政策を体現するパフォーマンスでもありました。

当時の名古屋は「名古屋の繁華は江戸にも劣らぬ」と評されるほどの賑わいを見せ、全国から商人や芸人が集まりました。

吉宗との対立と失脚

宗春の政策は名古屋に繁栄をもたらしましたが、将軍・吉宗との対立は深まる一方でした。吉宗は全国統一の政策を進めようとしていたため、それに逆らう宗春の存在は許容できないものでした。

1739年、吉宗は宗春に対して隠居・謹慎を命じました。宗春は名古屋城内の一室に幽閉され、以後25年間にわたって蟄居生活を送ることになりました。宗春の死後も墓には金網がかけられ、長らく名誉回復されませんでした。

⚠️ 注意

宗春の評価は時代によって大きく変わっています。江戸時代には幕府に逆らった「悪い藩主」とされましたが、現代では先進的な経済政策を行った「名君」として再評価されています。歴史上の人物の評価は、時代の価値観によって変化するものです。

宗春の再評価と現代への影響

長らく不遇だった宗春ですが、近年は大きく再評価されています。名古屋市では「宗春ゾーン」と呼ばれる地区が設定されるなど、宗春を地域の英雄として顕彰する動きがあります。

宗春の墓がある興正寺には、現在も多くの人が訪れています。また、名古屋城では宗春に関する展示が行われることもあり、その独自の政治理念は現代でも関心を集めています。「経済を活性化させるには規制緩和が必要」という宗春の考え方は、現代の経済政策にも通じるものがあります。

幕末の名君・徳川慶勝の活躍

14代藩主・徳川慶勝は、幕末の激動期に尾張藩を導いた名君として知られています。また、日本の写真史においても重要な人物で、幕末の名古屋城を撮影した写真は貴重な歴史資料となっています。

慶勝の生い立ちと藩主就任

徳川慶勝は1824年に高須藩主・松平義建の次男として生まれました。高須藩は尾張藩の支藩であり、慶勝は尾張徳川家の血を引く人物でした。1849年、13代藩主・慶臧が亡くなったことを受けて、25歳で尾張藩主となりました。

慶勝の兄弟には、15代藩主となる茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬がおり、「高須四兄弟」として知られています。幕末には兄弟がそれぞれ異なる立場で活動することになり、日本の運命を左右する存在となりました。

安政の大獄と謹慎

慶勝は藩政改革に熱心に取り組みましたが、1858年の安政の大獄で謹慎を命じられました。これは、将軍継嗣問題で一橋慶喜(後の15代将軍)を支持したためです。大老・井伊直弼は反対派を厳しく弾圧し、慶勝も処分を受けることになりました。

慶勝は隠居・謹慎となり、弟の茂徳が15代藩主となりました。しかし、1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると政治情勢が一変し、慶勝は復権への道を歩み始めます。

戊辰戦争と尾張藩の立場

1868年に戊辰戦争が勃発すると、慶勝は尾張藩を率いて新政府側につきました。これは御三家筆頭としては異例の決断でしたが、慶勝は早くから尊王の志を持っており、朝廷に忠誠を尽くすことを選びました。

慶勝の決断により、尾張藩は新政府軍の東海道鎮撫総督として活動し、東海地方の平定に貢献しました。この功績により、尾張藩は明治維新後も厚遇され、尾張徳川家は華族として存続することができました。

出来事 慶勝の対応
安政の大獄 1858年 謹慎処分を受ける
桜田門外の変 1860年 復権への契機
王政復古の大号令 1867年 新政府を支持
戊辰戦争 1868年 東海道鎮撫総督として活動

写真家としての慶勝

慶勝は日本の写真史においても重要な人物です。1850年代から写真に興味を持ち、自ら撮影を行いました。慶勝が撮影した写真には、幕末の名古屋城や城下町の風景、藩士たちの肖像などが含まれており、当時の様子を知る貴重な資料となっています。

特に重要なのが、1945年の空襲で焼失する前の名古屋城を撮影した写真です。慶勝の写真により、かつての名古屋城の姿を知ることができます。これらの写真は現在、徳川美術館などで保管されています。

💡 豆知識

慶勝が撮影した写真は約1000点が現存しており、大名自身が撮影した写真としては日本最大のコレクションとされています。幕末から明治にかけての貴重な視覚資料として、歴史研究に大いに活用されています。

明治維新後の慶勝

明治維新後、慶勝は尾張徳川家の当主として家名の存続に尽力しました。1869年の版籍奉還、1871年の廃藩置県を経て、尾張藩は消滅しましたが、尾張徳川家は華族(侯爵)として存続することができました。

慶勝は1883年に60歳で亡くなりましたが、その功績は現在も高く評価されています。幕末の激動期に適切な判断を下し、尾張徳川家を明治の世まで導いた名君として、歴史に名を残しています。

名古屋城の歴史的な出来事

名古屋城は400年以上の歴史の中で、多くの出来事を経験してきました。築城から現代に至るまでの主要な出来事を紹介します。

築城と清洲越し(1610年代)

1610年に始まった名古屋城の築城は、徳川家康の命による天下普請でした。西国大名20家以上が動員され、わずか2年で天守が完成するという驚異的なスピードで工事が進められました。同時に行われた「清洲越し」により、尾張の中心は清洲から名古屋へと移り、現在の名古屋市の基礎が築かれました。

本丸御殿の完成(1615年)

1615年に本丸御殿が完成しました。本丸御殿は藩主の住居であり、政務を行う場所でもありました。狩野派の絵師による障壁画で飾られた豪華絢爛な建物は、尾張藩の権威を示すものでした。本丸御殿は1945年の空襲で焼失しましたが、2018年に完全復元が完了しています。

宗春の時代と名古屋の繁栄(1730年代)

7代藩主・宗春の時代(1730-1739年)には、名古屋は空前の繁栄を迎えました。芝居小屋や遊郭が賑わい、「名古屋の繁華は江戸にも劣らぬ」と評されるほどでした。しかし、宗春の失脚後は緊縮財政に転換され、華やかな時代は終わりを告げました。

天保の大地震と修復(1891年)

1891年(明治24年)の濃尾地震は、名古屋城にも大きな被害を与えました。石垣の一部が崩落し、建物にも損傷が生じました。その後、修復工事が行われ、城郭は維持されました。

名古屋空襲と焼失(1945年)

1945年5月14日の名古屋空襲により、名古屋城は天守閣、本丸御殿など主要な建物を焼失しました。国宝に指定されていた天守閣と本丸御殿が一夜にして灰燼に帰したことは、名古屋市民にとって大きな悲しみでした。

⚠️ 注意

空襲で焼失した名古屋城の天守閣や本丸御殿は、徳川慶勝が撮影した写真や詳細な図面が残されていたため、後の復元に大いに役立ちました。歴史資料の重要性を示す事例といえます。

天守閣の再建(1959年)

1959年、名古屋城天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されました。市民の寄付を中心に資金が集められ、名古屋のシンボルが復活しました。ただし、外観は復元されたものの、内部は博物館として整備され、エレベーターなども設置されています。

本丸御殿の復元(2009-2018年)

本丸御殿は2009年から復元工事が始まり、2018年に完全復元が完了しました。伝統的な工法と材料を用いた本格的な復元であり、障壁画も可能な限り忠実に再現されています。復元された本丸御殿は、江戸時代の武家文化を伝える貴重な建物として、多くの観光客を集めています。

木造天守閣復元計画

名古屋市では、現在の鉄筋コンクリート造天守閣を取り壊し、木造で復元する計画が進められています。ただし、バリアフリーの問題や費用の問題など、課題も多く、計画の実現には時間がかかる見込みです。木造復元が実現すれば、焼失前の姿により近い天守閣を見ることができるようになります。

名古屋城城主に関するよくある質問

名古屋城の城主について、よく寄せられる質問に回答します。

Q. 名古屋城を築いたのは誰ですか?
A. 名古屋城は徳川家康の命により築かれました。1610年から天下普請として工事が始まり、西国大名20家以上が動員されました。特に石垣は加藤清正が担当したことで有名です。ただし、最初の城主(藩主)は家康の九男・徳川義直です。
Q. 尾張徳川家と将軍家の関係は?
A. 尾張徳川家は徳川御三家の筆頭として、将軍家に後継者がいない場合は将軍を出すという役割を持っていました。しかし、実際に尾張家から将軍が出ることはありませんでした。8代将軍継嗣問題では尾張藩主・継友が候補でしたが、紀州の吉宗が選ばれました。
Q. 最も有名な尾張藩主は誰ですか?
A. 最も有名なのは7代藩主・徳川宗春です。将軍・吉宗の緊縮政策に反対し、規制緩和によって名古屋を繁栄させました。白い牛に乗って城下を練り歩くなど、型破りな行動でも知られています。また、幕末の14代藩主・徳川慶勝も、新政府側について明治維新に貢献した名君として知られています。
Q. 尾張藩の石高はどのくらいでしたか?
A. 尾張藩の石高は61万9500石で、御三家の中で最大でした。紀州藩は55万5000石、水戸藩は35万石で、尾張藩が御三家筆頭とされた理由の一つはこの石高の大きさにあります。
Q. 現在の尾張徳川家はどうなっていますか?
A. 尾張徳川家は現在も続いており、徳川美術館の運営などに関わっています。徳川美術館には、尾張徳川家に伝わる国宝・重要文化財を含む約1万点以上の美術品が収蔵されています。また、尾張徳川家の菩提寺である建中寺には、歴代藩主の墓所があります。
Q. 名古屋城で城主に関する展示は見られますか?
A. 名古屋城の天守閣内には、尾張藩と歴代藩主に関する展示があります。また、本丸御殿は藩主の居住空間を再現しており、当時の生活を垣間見ることができます。より詳しく学びたい場合は、徳川美術館や徳川園を訪れることをおすすめします。

まとめ|名古屋城城主・尾張徳川家の歴史

名古屋城城主である尾張徳川家の歴史について詳しく紹介しました。最後に、この記事のポイントをまとめます。

📝 この記事のポイントまとめ

  • 名古屋城は1610年に徳川家康の命で築城開始
  • 城主は尾張徳川家(御三家筆頭)で約260年間・17代続いた
  • 初代藩主は徳川義直(家康の九男)
  • 最も有名な藩主は7代・徳川宗春(規制緩和で名古屋を繁栄)
  • 幕末の名君14代・徳川慶勝は写真家としても活躍
  • 尾張藩の石高は61万9500石で御三家最大
  • 現在も徳川美術館などで尾張徳川家の遺産を見学可能

名古屋城は単なる城郭ではなく、尾張徳川家260年の歴史が刻まれた場所です。築城から幕末まで、様々な藩主がこの城を居城とし、尾張国を治めてきました。特に初代・義直による藩政の基礎確立、7代・宗春の独自政策、14代・慶勝の幕末における活躍は、今も語り継がれています。

名古屋城を訪れる際には、天守閣や本丸御殿の建築だけでなく、そこに刻まれた歴史にも目を向けてみてください。また、徳川美術館や徳川園、建中寺など、尾張徳川家ゆかりの地を巡ることで、より深く歴史を感じることができるでしょう。名古屋の街並みや文化の基礎は、尾張徳川家によって築かれたものです。

🔗 関連スポット

・名古屋城(天守閣・本丸御殿)
・徳川美術館
・徳川園
・建中寺(尾張徳川家菩提寺)
・興正寺(宗春の墓所)

※この記事の情報は記事執筆時点のものです。名古屋城の開館時間、入場料などの最新情報は公式サイトでご確認ください。

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